アンケートメーカー

マーケティング再入門 
「宇沢弘文『社会的共通資本』を読む・その20:
ヴェブレンの新古典派理論批判」

新古典派理論の理論前提である生産手段の可塑性(マリアビリティ)に対して、ヴェブレンは「営利企業の理論」の中で、「近代工業社会では、産業革命を契機として、生産の大部分が、近代的技術を体化(embody)した機械を用いておこなわれるようになった」ことの意味を重要視し、掘り下げていきます。

「機械が工場に設置されると、他の用途に転用したり、異なった生産工程に組み込むことが困難となり、移転するにしても費用が相当にかかる」こと。

「機械による生産過程は同一工場の中での固定性をもたらすとともに、異なる工場相互の間の関係もまた固定的な性格を帯びることになる」こと。

「経済全体の生産規模も、その具体的な形態も、外生的条件や市場条件の変化に対応して可変的に調整することはできない」ことをヴェブレンは指摘します。

つまり、新古典派理論の想定とは対照的な状況が生み出されるわけで、「生産手段の可塑性」というのはそもそも成り立たないという主張です。

ヴェブレンは、新古典派理論の矛盾を指摘するだけにとどまらず、さらに先へと論を展開していきます。

「生産過程が機械を中心としたものとなり、生産要素の固定性が高まるにつれて、生産の主体である企業の性格についても、本質的な変化がもたらされる」。

宇沢の解説によると「新古典派的な企業が、そのときどきの市場的条件に対応して、生産要素の組み合わせを利潤が最大となるように調整することができる幻影的な存在であったのに対して、ヴェブレン的な企業は、一つの有機体的組織をもち、時間を通じてアイデンティティを保つ実体的な存在となる」、「生産主体がこのような実体的組織をもつ営利企業の形態をとるようになるとき、このような企業に雇用されている労働者、技術者、ときとしては経営管理者の生産への関わり方と、営利企業としてのあり方との間には必ずある種の緊張感がかもし出される。製作者としての本能的性向は、企業の目的である営利指向の経営のあり方と矛盾ないしは対立するのが一般的だからである」ということです。

少し言葉を加えると、ここでいう経営管理者と営利企業との間の緊張感というのは、雇われ経営者や出資を仰いでいる経営者と、資本家、投資家との関係をイメージしていただくと分かりやすいかもしれません。

「ヴェブレンは、産業(インダストリー)と営利(ビジネス)との間の緊張関係に焦点を当てて、現代の資本主義にひそむ病理学的な実態を明らかにしようとした」と宇沢は評しています。

宇沢の言う「資本主義にひそむ病理学的な実態」とは、現代資本主義が必然的に抱える避けがたいリスクや根本的な問題点を表しているのでしょう。

次回は、インダストリーとビジネスとの緊張関係と、その先にほぼ確実に起こるであろう事態をヴェブレンがどう見据えていたのか、引き続き宇沢の解説をもとに「営利企業の理論」をみていきたいと思います。

(by インディーロム 渡邉修也)

ページトップへ