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「宇沢弘文『社会的共通資本』を読む・その14:
アダム・スミスの共感と神の見えざる手」

制度主義経済学の祖であるソースティン・ヴェブレンについて、宇沢は「リベラリズムの思想は、ジョン・スチュアート・ミルに始まり、ジョン・デューイによって1つの哲学的体系として集大成された。このリベラリズムの思想を経済学の体系として定式化したのが、ソースティン・ヴェブレンである」と評しています。

宇沢は、リベラリズムの思想の流れの源流について、ミルからさらに百年前の哲学者で経済学者であるアダム・スミスから解説しています。

アダム・スミスは、中学・高校の教科書では、近代経済学の祖として紹介され、経済学分野の主著である「国富論」(「諸国民の富」とも訳される)については「神の見えざる手」によって「個々人が自己の利益を追求すれば、社会全体として適切な資源配分が達成される」といった説明がされ、「小さな政府」を主張する新自由主義の源流のような捉え方もされています。恥ずかしながら、私も原著を読まずにそのようなものだと鵜呑みにしておりました。

しかし、宇沢によるとそうではなく、元はと言えばスミスは「道徳感情論」で名を成した哲学者であり、「共感(sympathy)という概念を導入することで人間性の社会的本質」を明らかにしようとし、市民社会を「共感の可能性を秘めた社会的人間の集団」として捉えようとしたリベラリズムの思想家であると、解説しています。

「一人一人の市民が、人間的な感情を素直に自由に表現し、生活を享受できるような社会」、すなわり健康で文化的な生活を可能としそれを維持するためには、経済的な面で十分に豊かになっていなければならないと考えたスミスが、「道徳感情論」の後、10年の歳月をかけて書き上げたのが「国富論」であったということです。

つまり、一般に思われているような「神の見えざる手」イコール「自由主義万歳」「小さな政府最高」というのは、後世の経済学者や評論家がスミスの「国富論」の一部分を切り取り都合よく使っているだけで、決してスミスの本意ではないということなのです。

「国富論」の正式な書名は「諸国民の富の性質と諸原因についての研究」であり、「諸国民の富」の部分は「the Wealth of Nations」ですが、宇沢によると「Nation(国)という語は、1つの国の国土と、そのなかに住んで、生活している人々の総体を指す。つまり、国土と国民とを総体として捉えたものであって、統治機構を意味するState(国家)とは異なる、ときとして対立的な概念を指すものである」ということです。

私は高校生の頃、「国富論」という書名を聞いて、国家繁栄のための経済学と短絡的に捉えていたのですが、どうやらそうではなかったようです。

宇沢によると、「国富論」は、「道徳感情論」を基礎に置きつつ、新しいリベラルな市民社会の経済原理を明らかにしようという意図で、アダム・スミスが書いたものだということです。

次回は、こうしたアダム・スミスのリベラルな経済原理の考え方が、次の世代の経済学者であるジョン・スチュアート・ミルにいかに引き継がれていったのかを、宇沢の解説をもとに紹介します。(それにしても、アダム・スミスが「共感」の発案者だったとは、新鮮な驚きでした。)

(by インディーロム 渡邉修也)

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