マーケティング再入門
「宇沢弘文『社会的共通資本』を読む・その10:
子どもたちのインネート能力を伸ばす」
宇沢が、教育の目的、機能について、デューイの教育三原則に加えて強調していたことがあります。
「教育は、子どもたち一人一人が持っているインネート(innate) な能力、資質をできるだけ伸ばし、発展させるものである」という点です。
innate は「生来の」「生得の」ということで、宇沢は、子どもたちがぞれぞれ本有的に持っている資質(それは繊細な蕾であり、ちょっとしたことでしぼんでしまう)を大事に育てなければならないとし、子どもたちを比較したり、順位をつけることには反対の立場をとっていました。
宇沢は、シカゴ大学で教えていた際に、大学院大学に入ってくる米国全国統一試験の成績上位者が学者としてダメなことに注目し、試しに成績下位の者から採ったところ、学者として優秀な学生が集まるようになったそうです。(宇沢は、この経験をもとに東京大学でも試験で下位の者から採ろうと主張したようですが、周りに説得されあきらめたようです。)
いずれにしても、宇沢はセンター試験や偏差値で子どもや学生を評価し順位づけることが大嫌いだったわけですが、それは、ジョン・デューイのリベラリズムの教育理念、ソースティン・ヴェブレンの大学論への共感であり、その対極にあるミルトン・フリードマン等のヒューマン・キャピタルの概念に基づく教育経済学への批判でもあるわけです。
現在、日本では、昨年からのコロナへの対応もあり、文部科学省のGIGAスクール構想のもと各自治体で小中高校のICT化が急ピッチで進められています。
文部科学省の資料には、ICT化によって「多様な子どもたちを誰一人取り残すことなく、公正に個別最適化された創造性を育む教育を、全国の学校現場で持続的に実現させる」とあります。
私のようなICTの領域で25年以上仕事をしてきた人間として言わせてもらうと、ICTは諸刃の剣です。使い方を誤ると、宇沢が懸念していた生徒や学生の序列化に拍車をかけることにもなりかねません。
文部科学省の資料では、誰一人取り残すことないようにするために、AI技術などで一人一人の到達度や理解度に応じたドリル問題が出題されるといったことが書かれていますが、それはそれでよいことですが、本来は、それをコンピュータがやるのではなく、遅れそうになった子を、先生が(理想としては周りの友だちたちが)手をさしのべ、伴走してあげることが理想なわけで、なんだかどんどん宇沢が考える理想から離れているような気がします。
もちろんICTはあくまでツールでありインフラなので、運用次第で良い方向にも向かわせることもできます。そのためには、学校の先生、子どもたちの親、地域の大人たちが、教育とは本来どうあるべきなのかを真面目に考え、インフラの活用法を議論していくことが大切だと思います。
(by インディーロム 渡邉修也)