マーケティング再入門
「宇沢弘文『社会的共通資本』を読む・その9:
もしビジネスマンが大学を経営したらどうなるか」
前回は、法人資本主義という経済的、社会的体制のもとで、デューイの目指した社会的統合、平等化、人格的発達という教育の三原則が歪められてしまったこと、さらには60年代後半以降、ミルトン・フリードマン等の新自由主義的な「ヒューマン・キャピタル」という考え方に基づいて、教育が一層歪められていったことを紹介しました。
アメリカ資本主義の性格とそこにおける学校教育の性向とに対して、デューイとは異なる観点から教育理論を組み立てていったが、制度主義の提唱者でもあるソースティン・ヴェブレンです。ちなみに、ヴェブレンは、ジョン・デューイとは、シカゴ大学での同僚でもありました。
ヴェブレンの大学論である「アメリカにおける高等教育」の副題は「もしビジネスマンが大学を経営したらどうなるか」というもので、つまりは経営的観点を優先して大学を運営したらひどいことになる、という皮肉が込められたものです。
ヴェブレンは、大学とはどのようなものであるべきか、以下のように述べています。(※ヴェブレンは、『真理』の部分をエソテリック(esoteric、秘儀、奥儀)という用語を用いているそうです。)
「文明社会は、いずれも『真理』としての知識を蓄積しているかということによってその社会を特徴づけられる。」
「『真理』としての知識は、物質的ないし現実的にはなんらの価値ももたらさないのが一般的であって、それ自体として固有の価値をもつ。」
「『真理』として知識を維持し蓄積していく方法は、社会によって異なるが、共通するのは、科学者、学者、賢者、神官、牧師、僧侶、医者などの専門家やその道の達人ともいうべき人々からなる選ばれた集団の恒久的な維持という形態をとっており、きわめて厳格なかたちでの分業と専門化とが行われている。」
副題にあるように、ビジネスマンが大学経営をやったら、こうした賢人たちの積み重ねの営為が、近視眼的な利潤追求などで歪められ台無しになってしまう懸念がある、ということだと思われます。
ヴェブレンは、エソテリックな知識の蓄積の維持を担当する専門家集団に特徴的な2つの側面があると言います。
1つ目は、Idle Curiosity で、宇沢は「自由な知識欲」と訳しています。
Idle Curiosityとは、知識そのものを求めるのであって、知識によってもたらされる物質的、世俗的有用性を求めるものではない、ということ。
2つ目は、Instinct of Workmanship で、宇沢は「職人気質(かたぎ)」と訳しています。
Instinct of Workmanshipとは、技術者、職人、労働者が常にものをつくるという立場から最良の生産技術、原材料、生産工程を選ぼうとする本能的性向を意味するものです。
日本でも最近、学術の世界に政治が直接手を突っ込み、意に沿わない学者を排除するということが行われたましたが、ヴェブレンが、そして宇沢が生きていたら、猛烈に抗議したことでしょう。
(by インディーロム 渡邉修也)