マーケティング再入門
「宇沢弘文『社会的共通資本』を読む・その8:
新自由主義的な教育観 ヒューマン・キャピタル」
米国におけるデューイ等、リベラル派の「教育の機会均等化によって、社会的、経済的、ないしは文化的格差をなくそう」という流れは、ベトナム戦争が泥沼化し米国経済が低迷する中、1968年に出された「コールマン報告」によって「60年代の教育の不平等を是正するための財政的な再分配政策は、意図するような結果を生みなさなかった」となかば強引に結論づけられてしまいます。
宇沢は、このリベラル派の挫折について、ボウルズとギンタスによる「アメリカ資本主義と学校教育」の中から、以下のような主張を紹介していまます。
「たとえ IQが完全に一致したとしても、経済的地位は平均して親から子へ受け継がれる傾向をもつ」
「学校教育は、社会的、経済的な不平等を解決する方向に働いているのではなく、逆に不平等を拡大している」
「60年代アメリカのリベラル派の教育改革が失敗した原因は、社会的統合、平等化、人格的発達という学校教育の機能が、法人資本主義という経済的、社会的体制のもとでは整合的なかたちで働くことができなかったからだ」
「学校教育は、『偉大な平等化装置』どころか、逆に、法人資本主義体制におけるヒエラルキー的分業のもつ、非民主的、抑圧的な性向をいっそう強め、経済の社会的関係との対応を通じて、経済的不平等を再生産し、人格的発達を歪めるという役割すら果たしている」
宇沢は、ボウルズ=ギンタスのこうした主張を紹介はしていますが、もちろん、デューイ、ヴェブレンの教育観、教育理論を否定したいわけではありません。
60年代米国のリベラル派の挫折を踏まえ、ボウルズ=ギンタスが主張する教育制度の改革だけでは不十分で法人資本主義によって規定された社会的体制そのものから変えていく必要がある、ということなのでしょう。
ここに、制度主義と社会的共通資本の考え、社会的共通資本としての教育はどのようなものであるべきか、という宇沢の考えが浮かび上がってきます。
なお、宇沢は、コールマン報告以降、米国で息を吹き返した新自由主義的な教育観の背景となっているミルトン・フリードマンの「ヒューマン・キャピタル」という考え方について、各人がもっている知識、技術、技能をヒューマン・キャピタルと呼び、土地、家屋、金融などのノン・ヒューマン・キャピタルと同様に、市場的尺度の中で取り扱おうとする態度を「きわめて精神異常的(サイキアトリック)」と批判しています。
そういえば、日本の企業の人事部では、人材とか、人財、ヒューマン・リソース(HR)といった用語を無自覚に使い、「企業にとって人は財産」と誇らしげに語る場面もよく見かけますが、宇沢のこうした考えに触れた後では、軽々にそうした表現はできなくなるのではないでしょうか?
(by インディーロム 渡邉修也)