マーケティング再入門
「宇沢弘文『社会的共通資本』を読む・その7:
デューイの教育の三原則、ヴェブレンの大学論」
社会的共通資本の三本柱の1つである制度資本(教育、医療、金融、司法、行政など)のうち、宇沢がとりわけ力を注いだのは教育ではないでしょうか。
そのことは、宇沢が理想の教育を具現化するために学校設立を構想し、教科書まで自ら執筆していたことからもうかがえます。宇沢が目指していた教育とは、どのようなものだったのでしょうか。
宇沢の多くの文章の中で頻繁に紹介されているのが、米国のリベラル派の教育者のジョン・デューイと、経済学者・社会学者で制度主義の最初の提唱者であるソースティン・ヴェブレンの二人であり、デューイとヴェブレンからの影響は大きいと考えられます。この二人の教育に関する考え方を簡単におさらいしてみます。
デューイは「民主主義と教育」の中で「教育の三原則」を提唱しています。
- 第一は、「社会的統合」で、異なるバックボーンを持つ子どもたちが一緒に学び遊ぶことで、人間として共通の理念や生きざまを学ぶこと。
- 第二は、「平等主義」でどんな場所で生まれ育ってもその時の社会が提供できる最高の教育をすべての子どもたちが受けられるようにすること。それにより、社会の不平等を是正していくような教育であること。
- 第三は、「人格的発達」で一人ひとりの子どもの知的、精神的、道徳的な側面の発達を助けること。
デューイの教育の三原則は主として初等・中等教育を対象としたものですが、ヴェブレンの方は「アメリカにおける高等教育」で、大学はどうあるべきかを論じています。
ヴェブレンは近代文明における大学の機能について、以下のような二つの側面があると言います。
- 一つ目は、「Idle Curiosity(自由な知識欲)」で、人間に本来具わってる好奇心を探求していくことが大学の目的であって、決してお金を儲けたり世間的に出世して偉くなろうというものではないこと。
- 二つ目は、「Instinct of Workmanship(職人気質、生産者としての本能)」で、もともと人間はものづくりに対する本能的な熱意をもっていて、ものをつくるときに強制されたり、それによって儲けようと考えたりしないこと。
ヴェブレンは、この2つの本能的性向を深め、「真理」としての知識(エソテリックな知識)を蓄積していくことが、大学の基本的な役割である、としています。
この二人の教育論は、60年代前半までは米国でも積極的に採り入れられ推進もされたのですが、60年代後半以降、ベトナム戦争の泥沼化による米国経済の低迷と社会的変化の中で、こうしたリベラルな教育はしだいに脇に追いやられてしまいます。
宇沢は、ボウルズ=ギンタスの二人の論文「アメリカ資本主義と学校教育」を紹介しつつ、経済システムや社会体制によって学校教育がいかに影響を受けているのかを論じつつ、デューイ、ヴェブレンの考えを理想主義に終わらせず、実現していくための方向性として、社会的共通資本としての教育を論じています。次回は、ボウルズ=ギンタスの主張と宇沢の見解について。
(by インディーロム 渡邉修也)